B.B.CLOVERS コラム【甲子園の教訓】 ~New Edition~
No.9「甲子園って一体・・・?」

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前回のコラムNo.8では、開幕戦敗戦直後からのエピソードをお伝え致しました。
このコラムNo.9では、僕にとっての夢だった甲子園という舞台は、本当はどういう存在であったのかをご紹介してまいります。

今回も長文となりましたが、ごゆっくりお楽しみください。

【写真:開幕戦試合中の桐蔭学園ベンチの様子】

さて、甲子園を後にして帰路についた、傷心の桐蔭ナインが乗った新幹線が新横浜駅に到着します。

コラムNo.2でもご紹介させていただきましたが、甲子園への出発時には300~400名の県民の方々が朝日新聞の小旗を振りながら、大声援で僕たちを送り出してくれました。

新幹線が到着したのは、前日の開幕戦敗戦からまだ約24時間しか経っていない午後3時くらいであったと記憶しております。

僕たちの降り立った新横浜駅のホームには、それが当たり前かのように誰の出迎えもありませんでした。

あの出発の日の興奮はまるで夢の出来事だったかのように、むしろ静まり返っているといった感じすらしました。

その静かな光景が、僕の胸をまたも締め付けます。

そして、ホームから階段を降り改札口へと向かいます。

僕はまるで犯罪を犯した者になったかのような心持ちで、顔を伏せ、足元だけを見つめて歩いていきました。

そして、改札を出ると、そんな僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきました…。

その声に「ビクッと」反応した僕は、声のした方向に恐る恐る顔を向けます。
しかし、そこには見覚えのある顔が…。

声の正体は、渡辺憲一くんでした。

憲一は中学校時代の野球部同期で、部活が休みの時にはよく一緒に遊んだ記憶があり、野球部のメンバーの中でも特に気が合う友人でした。

そんな憲一が、僕のことを心配してわざわざ新横浜まで来てくれていたのでした。

「ハギ、お疲れ様! よくやったぞ!」

僕は、憲一が掛けてくれたその言葉に無言で頷きました。

いや、それしかできませんでした。

今思っても、そうやって誰の出迎えもないと思っていた中、「僕のためだけ」に来てくれた友人がいたことは本当に感謝しても足りないくらいに嬉しい出来事でした。

しかも、憲一も中学校卒業後は県立高校に進み、同じ高校球児としてつい先日まで甲子園を目指した一人なのです。

憲一にだって夏の悔しさがまだ残っているはずです。

そんな中、「僕のためだけ」に新横浜まで来てくれたのです。

それでも、僕は彼のそんな優しさあふれる行動に対し、頷くことしかできなかった…。
裏を返せば、僕の精神状態はそれだけ不安定だったと言えるのでしょう。

先日、10数年ぶりにその憲一に再会することができました。
その時にこの当時に関する会話に花が咲いたことは言うまでもありません。

そんな憲一も、今は教育者・指導者として野球に携わっています。
やはり、人は縁で繋がれているのだと感じずにはいられません。

さて、話を23年前に戻しましょう。

僕は憲一の見送りを背に、学校へと向かうバスへと乗り込みました。

バスは甲子園出発時に通った道と同じ道を反対方向へと走り、学校へと向かいました。

そして、僕の目には「横浜そごう」が見えてきました。

そうです、出発時の「横浜そごう」には、僕たち桐蔭ナインの甲子園での健闘を祈る大横断幕が掲げられていたことを以前のコラムでもお伝えしました。

その横断幕は…。

既に跡形もなく撤去されていました…。

昨日まではそこにあったはずの大横断幕。

「それを外したのは…俺なんだ…」

そんな気持ちが僕の心全体を支配します。

その時、既に切羽詰った精神状態の僕には、神奈川県全体を敵に回してしまっているのではないかという恐怖心が襲ってきていたのでした。

そして、横浜そごうを通過したあと、僕の記憶はまた途切れています…。

次に記憶を取り戻すのは、学校でのチーム解散後に実家へと戻った直後からです。

ここで、さっきバスの中で感じた恐怖がよもや現実のものになるとは全く想像していませんでした…。

前日の甲子園には、両親、それから叔父と従兄も忙しいスケジュールの合間を縫って、僕の応援へと駆けつけてくれていました。

神奈川の決勝戦後に流した、両親への感謝に対する涙。

その涙から数日。

僕はその両親への感謝を、夢であった甲子園で表現することができなかった。

「どんな顔をして両親の前に出ていけばいいいのか…」

そんなことを考えながら、玄関のドアを開け、リビングへと入っていきました。

「おかえり」

両親はいつも通りの言葉で迎えてくれました。

僕は「ありがとう」と言うべきなのか、「ごめんね」と言うべきなのか分からない自分が苦しくて、結局何の言葉も口にしなかった記憶があります。

しばらくして、普段は穏やかな父の表情がいつもと違うことに気づきます。

僕はそんな父に言葉をかけます。

「どうしたの?」

父は「いや…」と言ったあと、「賢だから言うけど…」と重々しい口調で切り出しました。

事情を聞くと、我が家にある見知らぬ人から1本の電話が入ったとのこと。

その内容はいわゆる「苦情」の電話だったようでした。

そして、その見知らぬ人が残した言葉とは…。

「神奈川県の恥さらしがっ!!!」

…(>_<)

みなさんが仮に僕と同じ立場だったらどう感じますか…?

僕は見知らぬ人からそんな言葉を浴びせられることになってしまった親に対し、「申し訳ない」という気持ちを優に通り越してしまった複雑な感情と、初めて「俺、もしかして殺されるのかな…?」と真剣に考えたことを覚えています。

そして、それ以降、僕は家から一歩も出ない夏休みを数日過ごすことになるのです。

ここまでのコラムでも述べてきましたが、プレーの内容はどうであれ、悪返球・悪送球・サヨナラエラーをしたのは「桐蔭の萩島」なのです。

その部分だけをクローズアップした各記事を見た方は、当然、「100%、萩島が悪い」という印象を持つことは致し方ありません。

でも、僕自身はそれで良いと思っていました。

他のメンバーのみんなは頑張ったんだから、僕だけが責められればそれで良いと…。

しかし、同時に、夢であり憧れであった「甲子園」が、18歳の僕にそこまでの試練を与える場所だとは、これっぽっちも想像していませんでした。

「甲子園って一体…?」

「怖い…」

夢と憧れの甲子園に出場した後に僕に残ったのは「恐怖」。

僕の今までの人生でここまでの「恐怖」を抱いたのは、後にも先にもこの甲子園後だけです。

「甲子園って一体…何…?」

そして、そこから先の僕の記憶はまた途切れています。

2週間後にその途切れた記憶が戻ったとき、僕は体重が12kg減っていました。

この記憶が途切れている間、何を食べたのかすらももちろん覚えていません。

食べていたのだとしても、ストレスによって減少したのでしょうね。
これも怖いですよね…。

そして、高校生最後の夏休みが終わる頃、僕は「野球を辞めよう…」と決意しました。
(続)

コラムNo.10はいよいよ最終回です!
最終回「甲子園の教訓」をお楽しみに!