B.B.CLOVERSコラム【甲子園の教訓】~New Edition~
No.2 「甲子園入り」

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コラムNo.1では、桐蔭学園高校の甲子園までの道のりをご紹介しました。
コラムNo.2では、その後甲子園入りするまでのエピソードをご紹介して
まいります。

【写真:甲子園出場決定の歓喜の瞬間(神奈川グラフより)】

さて、桐蔭学園高校は宿敵・横浜高校を下して2年連続4度目の甲子園出場を決めたわけですが、私自身にとっては、小学2年生の時にその「甲子園」に
行きたいという「夢」を持って野球を始め、その「甲子園」に行くために
桐蔭学園への進学を決意し、正にその「夢」が叶った瞬間でもありました。

ベンチからマウンド上でガッツポーズする由伸の元へ全力で走っていく記憶は今でも鮮明に残っていますが、その時はゆっくりと時間が流れるかのような不思議な感覚で走っていったことが思い出されます。

そして、優勝を決めたあとホームプレート付近に整列し、スコアボード上をゆっくりと上っていく「桐」を描いた校旗を見上げながら唄う校歌。

強豪校への進学に悩む私の選択を後押ししてくれた両親の顔が自然と思い出され、その感謝の思いから涙が溢れだし、顔をクシャクシャにしながら一生懸命に唄ったことが今でも最高の思い出です。

さて、子どもの頃からの「夢」が叶った一方、私はある「不安」を拭いきれずにいました。

というのも、神奈川県予選ではベンチ入りメンバー20名で戦いますが、
甲子園に行くとそのメンバーの数は5名削られ、15名(当時の部員数は
約60名)に絞り込まれるからです。

一緒に汗と涙を流して県予選を勝ち抜いたメンバーが5名外れるわけですが、2ケタの背番号「14」でベンチ入りしていた私は、甲子園メンバー入りの
当落線上にいる一人だったのは間違いないでしょう。

そして、運命の甲子園メンバー発表の日。
私は土屋監督に10番目に名前を呼ばれ、背番号「10」を着けてベンチ入り
することになり、その時に本当の意味で「夢」が叶った瞬間を迎えることが出来ました。

と同時に、外れてしまった自分以外の5名のメンバーの心境を考えると、
心の中で涙している自分もいて、非常に複雑な心境だったことが今でも
甲子園球児たちを見るたびに思い出されます。

現在では甲子園大会のベンチ入りメンバーの数が18名に拡大されていますが、これは同じく「夢」を目指す球児たちにとっては大変良いことですね。

甲子園メンバーが決まった後、横浜市庁・神奈川県庁への表敬訪問、学校での壮行会、TV神奈川への特番出演などの慌ただしい日程をこなし、いよいよ甲子園へと向かう日がやって来ました。

大型バスで学校を出発し新横浜駅へと向かっている道中、横浜駅近辺を通過するのですが、横浜そごうに私たちの甲子園出場を祝し、健闘を祈る巨大な垂れ幕が掛かっていました。

「祈健闘 がんばれ!桐蔭学園高等学校!」

その時に、「僕たちはすごいことをやってのけたんだ! そしてすごい場所に行くんだ!」と18歳の胸を躍らせたこと思い出します。

そして新横浜駅に到着、そこには朝日新聞の小旗、いわゆるマラソンや駅伝の時の沿道で振られているあの小旗ですね。
その小旗を振る、おそらく300~400名はいたでしょうか。
僕たちを一目見よう、神奈川の代表として送り出してあげようという市民の方々の人、人、人の波…。

多少の想像はしていたものの、ここまで多くの方々が来てくださるのか…と少し困惑した自分もいました。

今思えば、それが「神奈川県を勝ち抜いて甲子園に行く」ということの
県民の注目度を表していたのでしょうね。

そして、私は「その後に起こる様々な出来事」など想像する由もなく、
一路「夢」の甲子園球場へと向かったのです。

次回のコラムNo.3は、~甲子園練習、そして運命の抽選まで~を
お送りします。
次回もお楽しみに!